高田渡トリビュートライブ “Just Folks” 特別編と、志ん生=高田渡
高田渡トリビュートライブ“Just Folks”特別編なるものに行ってきました。
東京グローブ座という、新大久保駅からまっすぐ北へ歩いたところでありました。
三日前に気付いて急いでチケットを買ったのですが、一番上の三階席でした、見渡せば満員でしたので滑り込みセーフといったところ。
三部構成になっていて、一部が高田漣×井上陽水のトーク、二部が桃月庵白酒の落語、三部がライブということでなんだかすごい取り合わせです。
白酒師匠がまず素晴らしかった。もともと漣さんとは一度競演していて、出囃子をペダルスチールでやってもらって、『親子酒』をかけたそうです。もうぴったりなネタというか、それしかない! と、思っちゃいました。枕でそのはなしをふりながら、さらに高田渡と志ん生を引き合いにだして、酒好き、高座やステージで寝ること、でもその実、志ん生は寝ていたのではなくネタを忘れて思い出している間かたまっていたのを、客が寝ていると思いたがったのがそのままよく寝ていたと勘違いされていた。などなどふって、噺へはいるのですが、こちらとしては落語といえば、志ん生:志ん朝はスタイルを違えた名人なのであるからして、渡:漣は成立するのか? と、ちょっと思ってしまったらもう頭から離れません。もちろん親子酒はとてもたのしく、ところどころに『生活の柄』『自衛隊へ入ろう』『ごあいさつ』などの歌詞をくすぐりでいれたり、漣さんの活動を渡さんがいじるというさすがの組み立てで大いに感心しました。さすがです。でも志ん生=渡をだしたら、こっちは志ん朝=漣が気になるのはしょうがないですよ。どうしてくれるんですか。
そのときは落語に夢中になれたのですが、さてライブが始まるといよいよ、志ん生:志ん朝=渡:漣の式が気になってしかたありません。漣さんのアルバムはアーセナルのユニフォームを着た子供みたいなのがいっぱいいるジャケットのものをもっているのですが、演奏家として若くして渡さんと競演し、そこからいろいろなミュージシャンとも競演しているわけですから、キャリアは抜群なうえ都会育ちでもあるわけで、感性も洗練されていてものすごい完成度だと思いました。その頃の感覚だと確かに、志ん生:志ん朝=渡:漣の式が成り立つと断言してしまうかもしれません。そのアルバムでは漣さんは声も楽器のように使ってる感じがして、渡さんとは全く違うスタイルだと感じたからです。
渡さんのもっていたものは、落語でいう“フラ”です。それはいくら親子であれ、志ん生=志ん朝とならなかった、志ん生のフラはいくら息子であれ志ん朝は真似できない、それを前提に芸を磨いたたことが志ん朝の凄さであるということが落語の世界では言われています。そのことを高田親子にも当てはめると漣さんのファーストアルバムは志ん朝のように、父と違えど自分のやりかたで洗練されていると思わされます。
しかし、ついに漣さんはお父さんの歌をうたうという決断(なのかはわかりませんが)をされたということです。
こうなると漣=志ん朝、というのはちょっとちがいますね。ギター一本で渡さんの歌を歌うわけですから、スタイルを同じくしている、ところが渡さんのフラには到底およびません。まぁそこまで単純に落語と比べられませんが、ここまできたら、たとえ遊びです。遊びこそ熱を帯びてきます。ライブ中考えが巡ってしまい、その比較ばかり気になってしまいます。まったく白酒師匠のせいです。
まったくもってくだらない遊びですが、どうかひとつ。
いろいろ考えた結果、漣さんは凄いキャリアを持っています、それを引っさげてあえて高田渡という大師匠と同じやりかたへ惹かれてゆくわけです、私が思うに「親子だからやってもいいよね?」 みたいなことはないと思います、プロとして一流でやっている人にそんなことがあるわけがないというのは素人考えでもわかります。たまたま親子でありながらたまたま音楽で飯を食っているということだけで、本来はもう漣さんはひとりだちしている、自分の芸を持っているわけです。なのに、高田渡に惹かれて同じくギター一本で歌いたくなったのです。プロとして。
そう考えると、突如思い浮かんだのが、山崎邦正さんや、世界のナベアツさんです。芸人として完全に地位を確立したにも関わらず、名前を捨ててまで、落語家の師匠へ弟子入りされたわけです。輝かしいキャリアを持ちながら、あえてゼロからのスタートになる、扇子と着物という形式の落語、歌とギターの高田渡、道具は少なく洗練されたものへ向かうというところが重なります。
盛り上がっちゃいましたが、これはたとえ遊びですから。でもそんな感じがしましたよ。
どちらも素晴らしいキャリアからの転身。可能性は無限でしょう。漣さんも新境地を開かれることでしょうなどと考えてしまっているうちにもライブが進んでゆきます。全然集中してません。
ところが中盤ハッととさせられます。
まず、ゲストで、ドレスコーズというオネエみたいな歌い手が出てきます。この人の歌う『私は私よ』がよかったです、歌う前に「あれしかないよな〜」と思いました。もともと弱き人々、マイノリティーの声、みたいなことをフォークは歌うわけですが、現代ではオネエが『私は私よ』を歌うわけです。力強くセクシーにかわいく。ほんとうにハマり役でした。なんだか先までのたとえもバカバカしく、漣さんはプロデューサーとしても力を出されています。もう落語家にたとえている場合ではないです。
そこからが白眉であったと思います。
『銭が無けりゃ』、『生活の柄』、極めつけは『系図』。キャリア抜群の演奏家がそうそうたるメンバーを率いてすごいアレンジでやるんだからたまらない、本人もアレンジをたくさん入れましたと言って、演奏を始めるわけです、すごかったです。しっかり入り込めました。MC もきっちりしているというか、まじめなところがあると思います。曲に入る前に一言っていうのが実に効いています。大工哲弘さん曰く『生活の柄』はゆんたである(じっさい、生活の柄のアレンジは少し沖縄を感じさせました。ドラムがよかったです。)とか、「『系図』は親父の詩だと思ってました」とか。一言なのにきちんと客へわかりやすくしています。『系図』の歌詞は大好きなので、その一言でいろんなことを想いながら聴くことができます。
兎に角、構成も完璧なうえ、これは個人的にですが、志ん生親子を高田親子の比較を想像して最後まで楽しめました。
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高田渡、いちばん楽曲を網羅したい人です。