えんとろぴぃ

落語、読書、映画

第2回「吉笑ゼミ。」@東京大学 福武ホール

吉笑さんはホン・サンスの映画の時と、アップリンクでの落語会以来の3度目でした。

会場の福武ホールは赤門入ってすぐ左のコンクリ打ちっぱなしの新しそうなホールです。

 

一席目は「吉笑ゼミ。」という会の説明と、この日のゲスト(独立研究者の森田真生さん)との関わりを長めのマクラにして「ぞおん」。

マクラはゼミの時と普段を分けているのかはわかりませんが、マクラの方がこの会において重要な話となっていました。だからマクラとも言えないのかもしれません。

吉笑さんが初めて森田さんにアプローチ(きっかけはファンである榎本俊二さんの挿絵を見られるということで読んだコラムが、森田さんのものだった)するまで、榎本俊二さんや、武道家の先生からどのように森田さんまで辿り着くかという話で、その流れ自体を聴くと「吉笑ゼミ。」と銘打っている所以がわかるようになっています。興味を持ったことを学ぶことに貪欲な吉笑さんが、自分が学ぶための講義と落語会を合体させた形になっています。

そして「ぞおん」、この噺は吉笑さんの定番のように聴くことができて楽しいです。本当に自身で代表作だと自負されているような趣でございます。定かではありませんが、番頭さんの顔の動きがアップデートされた気がしました。

 

次に森田さんの講義が60分(よりは長引いたと思いますが、まだまだ聴いていられそうな調子でした)入ります。

「立て板に水」ってこういうことなのかな?と、思わせる話ぶりでした。落語やトークショーは聴き慣れているのですが、講義というのはほとんど聴いたこともなく…、圧倒されました!

まず登壇の際に準備運動からスタートしました。「少し歩いてからでいいですか」と言ってから、会場をウロウロと早歩きくらいでのスピードで歩いてからスタートします。かなり演出にこだわる方なのかと思ってしまいましたが、この後講義の際に演出という言葉が登場したので、準備運動もある程度は演出として意識してやられているのかもしれません。講義が始まると、演出かと思える動きも気にならないくらい、早口ながら明瞭な口跡で本当に聴きやすかったです。これも演出になるのですが、岡潔のエピソード(マイクを通すと情がなくなるといってマイクで話すことを嫌っていた)を紹介してからしばらくはマイクなしで話していました。

ウィトゲンシュタインを中心に、その師匠のフレーゲ、そして荒川修作などなどといった感じでしょうか…。大学の講義など受けることなく生きてきた身としてはフォローするのに一杯イッパイでして…。

とは言いましても、講義はわかりやすく話されており、途中に挟まれる自身の近況のエピソードなども面白く聴けます。子供時代にシカゴで過ごしていて、それがマイケル・ジョーダンの全盛期と重なっていて、ジョーダン一神教の子供時代を過ごした(これについては、私はほぼ同世代で部活はバスケ部だったのでわかります。ただ私のひねくれ根性から、強すぎるチームが嫌いで、2番手のソニックス(今はサンダーになってしまっていて、しかもホームタウンはオクラホマ…、クロマティーの地元でしたっけ?)を田舎でBSの放送から応援していました。ペイトンとジョーダンマッチアップなんか最高ですね)。森田さんのバスケ部の先生が山伏で、そこから武道家の先生につながった。先輩に講義に呼ばれて懐かしがられたが、どうも誰だか思い出せない、調べると全く学年が被っていなかった。などなど…面白いエピソードも満載で、本当に面白い先生の授業を受けていると感じられる部分がたくさんありました。

メモとして残したいフレーズもあります。個人的になってしまいますが、「すべての人は生まれながらに出遅れている」という言葉。これは普段、私を不安にさせる自分自身の性格で、未来を見据えようとするより、過去のほうが気になってしまうことがあって、つまり歴史主義といいますか、先祖が一万年以上やってきたことの方が、この先のAIとかシンギュラリティより気になります。その性格に対してかなりよい言葉として響きました。例えば本を読んでいて、読めば読むほど、世の中に存在する本の数を意識しだしてしまいます。NHK宮沢章夫さんのサブカルチャー史だってそうです。整然と並べると、自分の生まれるとうの昔に、今見ても新しく発見することはごまんとあります。知ったつもりになれることなんてそうそうありません。それを人類一万年単位で見るとなるとクラクラします(流行りの『サピエンス全史』で整理できたような気になりながら)。「すべての人は生まれながらに出遅れている」という言葉は過去の歴史の拡がりを畏怖する自分に肯定的に響きました。これからもクラクラしながら学ぶしかないんだ、と。

ほかにもしっくりくるフレーズがたくさん得られました、AIやシンギュラリティの話も森田さんの考えは、急進的ではなくてよかったです(数がわかっているもの(筆算のしくみ)と、わかっているように見せるもの(計算機)の違いの話)。東京滞在の際に、三鷹の天命反転住宅に泊まった話など、荒川修作話もたくさんでてきて、「サブカルチャー好きだし、もうちょっと難しめの話もトライしたいおじさん」としては最高の話ばかりでした、且つ「本当に今を生きるってどんなよ?」って常日頃思っている時に、考えることの援けになる話が聴けてよかったです。

自分を「サブカルチャー好きだし、もうちょっと難しめの話もトライしたいおじさん」と位置づけてしまいましたが、それをレベル高くした人というか、代弁者のような人にあたるのが吉笑さんだと思いました。

 

講義のあとの二席目は講義から落語を拵えるという趣向です。

落語の即興といえば、三題噺だと思うのですが。これはまずそのバージョンのように受け取ることができると思います。支流のような感じです。

噺は講義を受けた中からピンポイントに絞って作られます。噺に入る前にいかに作るのが難しかったかというのは当然語られます。それは同じ講義を聴いていたからわかるようになっています。「確かにムズイよね〜」 というのは共有されていますので、そこから吉笑フィルターがどのようにかかっているかに関心が集まります。

ここまで書きながら、講義の説明もちゃんと書いていないのに、本題について書くことができる気がしません…。

そこで心からこういった音源を、どうにかして配布して頂けないものかという願いが頭をもたげます。若手落語家の真骨頂としてシェアの精神を…なんてぇのはなかなか難しいんでしょうね。

即興新作の噺の中では自/他の境界線がわからなくなり(これはやっぱり粗忽長屋を感じさせます)、道の向こうを歩いている人を指して「あのおっさんもオレなのか?」というセリフがありました。これも私事のメモのようになってしまいますが、「あのおっさんもオレなのだ」という妄想、自/他の境界を消す妄想を普段よくやります。例えば満員電車や、道にゴミを捨てる人を見たときなど、自分と他人との関わりにおいてイライラしてしまったり不快に思ってしまうときに、そのように妄想します。統合思念体のような…。今、ゴミを捨てたおっさんを見て腹が立ったが、果たして自分の行動は他人に見られてそのような気持ちにさせることはやっていない、と言い切れないのではないか。と思いながら自と他の意識を混ぜることはできないのか?と、思ったりします。落語では「地球全体はオレなんや」というところまでいくのですが、そういうことを思うことがあったので、つい膝を打ってしまいました。そういった感覚が落語になっているというのが痛快でした。

 

普段、頑張って本を読んだりはしながらも、こういう学びの形ははじめての体験でした。
「吉笑ゼミ。」しっかり修めるべく、通いたくなりました。

 

※最後に、極私的な文であり落語や講義の内容を正しく伝えるものではないことをあらかじめおことわりいたします。

 

数学する身体

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数学する人生

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現在落語論

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