えんとろぴぃ

落語、読書、映画

第2回「吉笑ゼミ。」@東京大学 福武ホール

吉笑さんはホン・サンスの映画の時と、アップリンクでの落語会以来の3度目でした。

会場の福武ホールは赤門入ってすぐ左のコンクリ打ちっぱなしの新しそうなホールです。

 

一席目は「吉笑ゼミ。」という会の説明と、この日のゲスト(独立研究者の森田真生さん)との関わりを長めのマクラにして「ぞおん」。

マクラはゼミの時と普段を分けているのかはわかりませんが、マクラの方がこの会において重要な話となっていました。だからマクラとも言えないのかもしれません。

吉笑さんが初めて森田さんにアプローチ(きっかけはファンである榎本俊二さんの挿絵を見られるということで読んだコラムが、森田さんのものだった)するまで、榎本俊二さんや、武道家の先生からどのように森田さんまで辿り着くかという話で、その流れ自体を聴くと「吉笑ゼミ。」と銘打っている所以がわかるようになっています。興味を持ったことを学ぶことに貪欲な吉笑さんが、自分が学ぶための講義と落語会を合体させた形になっています。

そして「ぞおん」、この噺は吉笑さんの定番のように聴くことができて楽しいです。本当に自身で代表作だと自負されているような趣でございます。定かではありませんが、番頭さんの顔の動きがアップデートされた気がしました。

 

次に森田さんの講義が60分(よりは長引いたと思いますが、まだまだ聴いていられそうな調子でした)入ります。

「立て板に水」ってこういうことなのかな?と、思わせる話ぶりでした。落語やトークショーは聴き慣れているのですが、講義というのはほとんど聴いたこともなく…、圧倒されました!

まず登壇の際に準備運動からスタートしました。「少し歩いてからでいいですか」と言ってから、会場をウロウロと早歩きくらいでのスピードで歩いてからスタートします。かなり演出にこだわる方なのかと思ってしまいましたが、この後講義の際に演出という言葉が登場したので、準備運動もある程度は演出として意識してやられているのかもしれません。講義が始まると、演出かと思える動きも気にならないくらい、早口ながら明瞭な口跡で本当に聴きやすかったです。これも演出になるのですが、岡潔のエピソード(マイクを通すと情がなくなるといってマイクで話すことを嫌っていた)を紹介してからしばらくはマイクなしで話していました。

ウィトゲンシュタインを中心に、その師匠のフレーゲ、そして荒川修作などなどといった感じでしょうか…。大学の講義など受けることなく生きてきた身としてはフォローするのに一杯イッパイでして…。

とは言いましても、講義はわかりやすく話されており、途中に挟まれる自身の近況のエピソードなども面白く聴けます。子供時代にシカゴで過ごしていて、それがマイケル・ジョーダンの全盛期と重なっていて、ジョーダン一神教の子供時代を過ごした(これについては、私はほぼ同世代で部活はバスケ部だったのでわかります。ただ私のひねくれ根性から、強すぎるチームが嫌いで、2番手のソニックス(今はサンダーになってしまっていて、しかもホームタウンはオクラホマ…、クロマティーの地元でしたっけ?)を田舎でBSの放送から応援していました。ペイトンとジョーダンマッチアップなんか最高ですね)。森田さんのバスケ部の先生が山伏で、そこから武道家の先生につながった。先輩に講義に呼ばれて懐かしがられたが、どうも誰だか思い出せない、調べると全く学年が被っていなかった。などなど…面白いエピソードも満載で、本当に面白い先生の授業を受けていると感じられる部分がたくさんありました。

メモとして残したいフレーズもあります。個人的になってしまいますが、「すべての人は生まれながらに出遅れている」という言葉。これは普段、私を不安にさせる自分自身の性格で、未来を見据えようとするより、過去のほうが気になってしまうことがあって、つまり歴史主義といいますか、先祖が一万年以上やってきたことの方が、この先のAIとかシンギュラリティより気になります。その性格に対してかなりよい言葉として響きました。例えば本を読んでいて、読めば読むほど、世の中に存在する本の数を意識しだしてしまいます。NHK宮沢章夫さんのサブカルチャー史だってそうです。整然と並べると、自分の生まれるとうの昔に、今見ても新しく発見することはごまんとあります。知ったつもりになれることなんてそうそうありません。それを人類一万年単位で見るとなるとクラクラします(流行りの『サピエンス全史』で整理できたような気になりながら)。「すべての人は生まれながらに出遅れている」という言葉は過去の歴史の拡がりを畏怖する自分に肯定的に響きました。これからもクラクラしながら学ぶしかないんだ、と。

ほかにもしっくりくるフレーズがたくさん得られました、AIやシンギュラリティの話も森田さんの考えは、急進的ではなくてよかったです(数がわかっているもの(筆算のしくみ)と、わかっているように見せるもの(計算機)の違いの話)。東京滞在の際に、三鷹の天命反転住宅に泊まった話など、荒川修作話もたくさんでてきて、「サブカルチャー好きだし、もうちょっと難しめの話もトライしたいおじさん」としては最高の話ばかりでした、且つ「本当に今を生きるってどんなよ?」って常日頃思っている時に、考えることの援けになる話が聴けてよかったです。

自分を「サブカルチャー好きだし、もうちょっと難しめの話もトライしたいおじさん」と位置づけてしまいましたが、それをレベル高くした人というか、代弁者のような人にあたるのが吉笑さんだと思いました。

 

講義のあとの二席目は講義から落語を拵えるという趣向です。

落語の即興といえば、三題噺だと思うのですが。これはまずそのバージョンのように受け取ることができると思います。支流のような感じです。

噺は講義を受けた中からピンポイントに絞って作られます。噺に入る前にいかに作るのが難しかったかというのは当然語られます。それは同じ講義を聴いていたからわかるようになっています。「確かにムズイよね〜」 というのは共有されていますので、そこから吉笑フィルターがどのようにかかっているかに関心が集まります。

ここまで書きながら、講義の説明もちゃんと書いていないのに、本題について書くことができる気がしません…。

そこで心からこういった音源を、どうにかして配布して頂けないものかという願いが頭をもたげます。若手落語家の真骨頂としてシェアの精神を…なんてぇのはなかなか難しいんでしょうね。

即興新作の噺の中では自/他の境界線がわからなくなり(これはやっぱり粗忽長屋を感じさせます)、道の向こうを歩いている人を指して「あのおっさんもオレなのか?」というセリフがありました。これも私事のメモのようになってしまいますが、「あのおっさんもオレなのだ」という妄想、自/他の境界を消す妄想を普段よくやります。例えば満員電車や、道にゴミを捨てる人を見たときなど、自分と他人との関わりにおいてイライラしてしまったり不快に思ってしまうときに、そのように妄想します。統合思念体のような…。今、ゴミを捨てたおっさんを見て腹が立ったが、果たして自分の行動は他人に見られてそのような気持ちにさせることはやっていない、と言い切れないのではないか。と思いながら自と他の意識を混ぜることはできないのか?と、思ったりします。落語では「地球全体はオレなんや」というところまでいくのですが、そういうことを思うことがあったので、つい膝を打ってしまいました。そういった感覚が落語になっているというのが痛快でした。

 

普段、頑張って本を読んだりはしながらも、こういう学びの形ははじめての体験でした。
「吉笑ゼミ。」しっかり修めるべく、通いたくなりました。

 

※最後に、極私的な文であり落語や講義の内容を正しく伝えるものではないことをあらかじめおことわりいたします。

 

数学する身体

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数学する人生

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現在落語論

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死なない子供、荒川修作 [DVD]

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『0.5ミリ』からはじまった、立川談笑『居残り佐平次』

『0.5ミリ』の主人公サワが居残り佐平次ばりだということがパンフレットにあったので、言われてみるとそのとおり、安藤サクラの演じるサワに佐平次を感じる。そういう気持ちにさせてくれる演技なのだから素晴らしい、安藤サクラはこれからもみていきたい役者です。ほとんど同時期に公開された『百円の恋』も全く違った役ですごいことをやっていました。

映画についてではなく佐平次について。しっくりくると聴きたくなって、ここしばらく居残り佐平次ばかり、志ん生、談志、志ん朝、一朝、円丈、談笑、あたりを自分の持っているものや、YouTube で立て続けに聴いていました。聴き方についてひとつ余談ですが、先日開始されたアップルミュージックに登録しているので、試しに居残り佐平次を検索してみたら、一朝と志ん輔があるようで、古いものは無いようですが、音源があるだけ驚きました。プレイリストを作って、体系づけたりできるので、今後もっと充実すると面白そうです。

さて居残り佐平次ですが、ちょうど翌日にぎわい座で、談笑の独演会があったので、ひととおりの最後に談笑を聴いたのですが、談笑得意の古典の改作の中ではいまいちピンとこない、あのハッとさせる感じもあまり強くない。従来の方がいかにも落語的な風情を感じるうえ、この噺は「幕末太陽傳」を観てさらにイメージがおおきくなっていて、落語と映画によって脳内の風景がよりきめ細かく、深みをもっています。フランキー堺のつくる哀愁は落語で聴くと感じないものがあって、佐平次のキャラクターをより愛着のあるものにしてくれます。それに対し大店のにぎやかさや、海沿いの風景などは落語を聴いて脳内に描いたものをちゃんと見せてくれる、といった具合に落語と映画によって居残り佐平次が特別な噺になっていきます。
そんなことを考えていた翌日のにぎわい座。二席で中入りあと一席、というコースで前半は粗忽シリーズで堀之内と粗忽長屋。堀之内は夏バテを感じる、おわったとたん給水に走る師匠。粗忽シリーズは談笑本人の性格が抜けているというお墨付きを談志師匠からもらっているという触れ込みで、そう枕でふられるとなんだか可愛げも増してきたように思えてきます。
そして中入りのあと幕が開きます、高座につくなり噺は始まり、注文した酒を待つ男に、隣で飲んでいる男が声をかける。まさか!である。思い切り拍手しそうになりました。そうです、なんと居残りがかかりました!
これだから落語はやめられネェ!と叫びたいような心持ちになりました。さらにものすごいのが噺のディテールが研ぎすまされていたところです。前日に音源を聴いていたばかりなので違いもわかります。終盤にかけてのお菊ちゃんの出てくるところからがすごかった、談笑の改作のミソである少しイヤーな心持ちになるようなシーンの作り方、しかもそれは現代性に根ざしているのでこちらにもどんどんそれが粘り気をもって入ってくる。このお菊ちゃんのところは、佐平次が内部からお店を取り込むことに成功したのち、お店の花魁をあつめて唄やメイクを指導したりするところ。中盤を短くして終盤のここを長くしているだけあって見所でした。すべてが見事な談笑節、本当の現代性の注入なのです。唄の指導のところはアイドルの振付の先生、メイクの指導は最先端のメイキャップアーティスト、ひいてはお菊ちゃんの身請け話を、アイドルが自身のグループのメンバーから抜ける時に使われる、卒業という言葉を「お菊ちゃん、卒業です」なんて使いまわすという、これらは日常に誰もがテレビから得ている脳内イメージを巧みに引っ張りだしてきて、徹底的に揶揄しています。表面的にならずにギャグの中にしっかりと埋め込まれているので、えも言われぬ嫌な感じがするのに笑いが止まらないという、これぞ談笑落語の真骨頂!といったところです。クライマックスへの絶妙なテンションの上げ方は以前の構成からずいぶん洗練されています。ちなみに中入り前の粗忽長屋に伏線のようなところもあって、死体の前に群がる群衆をかきわけるところで「なにがあったんです?」と聴く主人公に群衆のひとりが「若い女の子が集まってジャンケンしてるみてぇだよ」と答えるところがありました。それに「おれはそういうの大嫌いだよ」と返す、これがさっきのお菊ちゃんのところに生きてきました。そういう流れがつくれるのが独演会のキモですね。
談笑落語の洗練を味わえたことが、居残り佐平次がかかるという幸運に輪をかけて素晴らしい体験となりました。
もっと落語を見に行かなければとこれほどまでに思わされることはありません。

 

0.5ミリ [DVD]

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イラサリマケー

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高田渡トリビュートライブ “Just Folks” 特別編と、志ん生=高田渡

高田渡トリビュートライブ“Just Folks”特別編なるものに行ってきました。

東京グローブ座という、新大久保駅からまっすぐ北へ歩いたところでありました。

三日前に気付いて急いでチケットを買ったのですが、一番上の三階席でした、見渡せば満員でしたので滑り込みセーフといったところ。

三部構成になっていて、一部が高田漣×井上陽水のトーク、二部が桃月庵白酒の落語、三部がライブということでなんだかすごい取り合わせです。

白酒師匠がまず素晴らしかった。もともと漣さんとは一度競演していて、出囃子をペダルスチールでやってもらって、『親子酒』をかけたそうです。もうぴったりなネタというか、それしかない! と、思っちゃいました。枕でそのはなしをふりながら、さらに高田渡志ん生を引き合いにだして、酒好き、高座やステージで寝ること、でもその実、志ん生は寝ていたのではなくネタを忘れて思い出している間かたまっていたのを、客が寝ていると思いたがったのがそのままよく寝ていたと勘違いされていた。などなどふって、噺へはいるのですが、こちらとしては落語といえば、志ん生志ん朝はスタイルを違えた名人なのであるからして、渡:漣は成立するのか? と、ちょっと思ってしまったらもう頭から離れません。もちろん親子酒はとてもたのしく、ところどころに『生活の柄』『自衛隊へ入ろう』『ごあいさつ』などの歌詞をくすぐりでいれたり、漣さんの活動を渡さんがいじるというさすがの組み立てで大いに感心しました。さすがです。でも志ん生=渡をだしたら、こっちは志ん朝=漣が気になるのはしょうがないですよ。どうしてくれるんですか。

そのときは落語に夢中になれたのですが、さてライブが始まるといよいよ、志ん生志ん朝=渡:漣の式が気になってしかたありません。漣さんのアルバムはアーセナルのユニフォームを着た子供みたいなのがいっぱいいるジャケットのものをもっているのですが、演奏家として若くして渡さんと競演し、そこからいろいろなミュージシャンとも競演しているわけですから、キャリアは抜群なうえ都会育ちでもあるわけで、感性も洗練されていてものすごい完成度だと思いました。その頃の感覚だと確かに、志ん生志ん朝=渡:漣の式が成り立つと断言してしまうかもしれません。そのアルバムでは漣さんは声も楽器のように使ってる感じがして、渡さんとは全く違うスタイルだと感じたからです。

渡さんのもっていたものは、落語でいう“フラ”です。それはいくら親子であれ、志ん生志ん朝とならなかった、志ん生のフラはいくら息子であれ志ん朝は真似できない、それを前提に芸を磨いたたことが志ん朝の凄さであるということが落語の世界では言われています。そのことを高田親子にも当てはめると漣さんのファーストアルバムは志ん朝のように、父と違えど自分のやりかたで洗練されていると思わされます。

しかし、ついに漣さんはお父さんの歌をうたうという決断(なのかはわかりませんが)をされたということです。

こうなると漣=志ん朝、というのはちょっとちがいますね。ギター一本で渡さんの歌を歌うわけですから、スタイルを同じくしている、ところが渡さんのフラには到底およびません。まぁそこまで単純に落語と比べられませんが、ここまできたら、たとえ遊びです。遊びこそ熱を帯びてきます。ライブ中考えが巡ってしまい、その比較ばかり気になってしまいます。まったく白酒師匠のせいです。

 

まったくもってくだらない遊びですが、どうかひとつ。

いろいろ考えた結果、漣さんは凄いキャリアを持っています、それを引っさげてあえて高田渡という大師匠と同じやりかたへ惹かれてゆくわけです、私が思うに「親子だからやってもいいよね?」 みたいなことはないと思います、プロとして一流でやっている人にそんなことがあるわけがないというのは素人考えでもわかります。たまたま親子でありながらたまたま音楽で飯を食っているということだけで、本来はもう漣さんはひとりだちしている、自分の芸を持っているわけです。なのに、高田渡に惹かれて同じくギター一本で歌いたくなったのです。プロとして。

そう考えると、突如思い浮かんだのが、山崎邦正さんや、世界のナベアツさんです。芸人として完全に地位を確立したにも関わらず、名前を捨ててまで、落語家の師匠へ弟子入りされたわけです。輝かしいキャリアを持ちながら、あえてゼロからのスタートになる、扇子と着物という形式の落語、歌とギターの高田渡、道具は少なく洗練されたものへ向かうというところが重なります。

盛り上がっちゃいましたが、これはたとえ遊びですから。でもそんな感じがしましたよ。

どちらも素晴らしいキャリアからの転身。可能性は無限でしょう。漣さんも新境地を開かれることでしょうなどと考えてしまっているうちにもライブが進んでゆきます。全然集中してません。

ところが中盤ハッととさせられます。

まず、ゲストで、ドレスコーズというオネエみたいな歌い手が出てきます。この人の歌う『私は私よ』がよかったです、歌う前に「あれしかないよな〜」と思いました。もともと弱き人々、マイノリティーの声、みたいなことをフォークは歌うわけですが、現代ではオネエが『私は私よ』を歌うわけです。力強くセクシーにかわいく。ほんとうにハマり役でした。なんだか先までのたとえもバカバカしく、漣さんはプロデューサーとしても力を出されています。もう落語家にたとえている場合ではないです。

 

そこからが白眉であったと思います。

『銭が無けりゃ』、『生活の柄』、極めつけは『系図』。キャリア抜群の演奏家がそうそうたるメンバーを率いてすごいアレンジでやるんだからたまらない、本人もアレンジをたくさん入れましたと言って、演奏を始めるわけです、すごかったです。しっかり入り込めました。MC もきっちりしているというか、まじめなところがあると思います。曲に入る前に一言っていうのが実に効いています。大工哲弘さん曰く『生活の柄』はゆんたである(じっさい、生活の柄のアレンジは少し沖縄を感じさせました。ドラムがよかったです。)とか、「『系図』は親父の詩だと思ってました」とか。一言なのにきちんと客へわかりやすくしています。『系図』の歌詞は大好きなので、その一言でいろんなことを想いながら聴くことができます。

兎に角、構成も完璧なうえ、これは個人的にですが、志ん生親子を高田親子の比較を想像して最後まで楽しめました。

 

 

コーヒーブルース~高田渡を歌う~

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イキテル・ソング~オールタイム・ベスト~

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マイ・フレンド: 高田渡青春日記1966ー1969

マイ・フレンド: 高田渡青春日記1966ー1969

 

 

27/03/03

27/03/03

 

 高田渡、いちばん楽曲を網羅したい人です。

 

図書館とモツ煮込

図書館は本当に便利になりました。

と、言ってみるものの、便利じゃない時期にそれほど利用していませんでしたので、どのくらい便利になったかという比較はできないのですが。

図書館へ行くようになったのは落語を聞き始めたことがきっかけだったと思います。まず名人の全集ものをちょこちょこ順番に借りていましたが、ネットで予約ができるようになっていて、これがほんとうにいい、考えてみれば昨今ではあたりまえのことのように思うかもしれませんが、意外とまだまだ使っている人は少ないように思います。よく図書館に行くという話を人にすると、まずこのネットで予約できることに驚く人も少なくありません。

もうひとついいことがあります。これには私も驚いたのですが、住んでいる区でなくても利用者登録ができることです。なんとなく自分の住む区の利用に限られるものだと思っていたのですが、今や私は三つの区のカードを使い分けています。

それぞれの区によって、区民性のようなものが反映されている気がして、どんどん面白くなってきました。落語に強い区、蔵書数が多い区、マニアック度、新刊に対しての予約者数の違い、開館時間の時間帯まで、それぞれの区に特色があります。文京区は特に落語の揃いがいいように思います。本も蔵書自体が多いのか、他になくても文京区にはある、ということがよくあります。東大なんかがあるからかなあ。

ところが私は文京区の図書館が一番行くのに時間がかかります、CD 一枚のために電車を乗り継ぐわけです、二十枚入りの BOX なんてえのはめったにありませんから、だいたいが新しく出たものの予約の順がまわってきて取りにいくといった寸法です。そうなるとついでの用がほしくなります、とうとう行きつけの飲み屋をつくることになったのですが、そこがあまりに美味しいところで、そこへ飲みに行く口実として図書館へ、なんてえことになってきました。

その店はもつ焼きが絶品なのですが、もちろん煮込みもあって毎回食べています。

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モツ煮込

早い時間に行けたからなのか柔らかくて大きな肉塊が入っています。ここへ顔をうずめて、バラバラになったいろんな食感の部位を夢中でつまみます。これほど幸せな時間といったらないです。

 

この“顔をうずめる”ということをしたくなるのが、どうもこの本の影響下にあるようで、前半に出てくる煮込みを食べるところを読んでの衝撃が頭から離れず、たびたび“顔をうずめに”でかけてしまうのです。その衝撃のおかげでそこから先へ読み進めることもままならなくなって、机の上へ置いたままになり、カバーが目に入るたびに脳内へ煮込みの湯気とキラキラした器官や肺などのかけらがいっぱいに映し出されて、ついぞ本を開くことのないまま時間は過ぎてゆきます。

 

新しい天体 (光文社文庫)

新しい天体 (光文社文庫)

 

 

世界の快適音楽セレクション 17th ANNIV

ゴンチチの世界の快適音楽セレクションが17周年でした。

 -17あたりの音楽- というお題でした。

 

偶然同じく17周年の、四谷三丁目スターバックスで聴きました。

 


夢みる17才 Mit 17 hat man noch Träume(Japanese) - YouTube

アメリカンスナイパーと『本当の戦争の話をしよう』伊勢崎賢治

本をいつも数冊手元に置いておくことにしています。

何となく気になっていることについて書いてある本を選ぶんですが。

例えば戦争や紛争についてなんてえことは、始終きになるといいますか、ずっと人類につきまとっているものとして気にしない訳にはいかないわけですから、定期的にそういうものを読むことになります。

そういうことをしていると、たまたまですが、本と本以外の事柄がぐうぜん重なったりします。

話題の映画、アメリカンスナイパーの前売りを買って見に行ったのですが、それはそれでいつもどおり、ある程度話題の映画は見ているので変わったことはしていないのですが、そのタイミングで裏と表になるように、手元にある本と映画の扱うテーマが重なるようなことがあります。

特にこの組み合わせ、セットにしたい本当にいい組み合わせでした。

アメリカンスナイパーの主人公カイルは、アフガニスタンへ行ったスナイパーで、伊勢崎さんはタリバン武装解除を依頼された「紛争屋」と、同じ戦争に違う役割でかかわったことになります。

伊勢崎さんの本は高校生へ説明している形なので丁寧でわかりやすくまとまっています。一方『アメリカンスナイパー』は本国のアメリカでさえ観客がきちんと意図を汲み取れていないと町山さんがラジオでレビューしていたことからも、そう単純な話ではないんだろうということはわかります。愛国心を強調しているシーンも多く出てきます、それらをどのように観ればいいのだろうと思ったことに、この本の力添えはとても頼りになりました。

そして何より世界中の紛争、虐殺について多くのページを割いていて、いままでニュースなどでなんとなく聞いていた地名や事件がたくさん扱われ、ゆっくり考えることができるようなつくりになっていて本当に勉強になりました。

 

本当の戦争の話をしよう: 世界の「対立」を仕切る

本当の戦争の話をしよう: 世界の「対立」を仕切る

 

 

酒薫旅情

滋賀についての本(見たまんま表紙が琵琶湖)です。 

BOOKasahi の書評欄から引っ張ってきたのですが、この本を扱ったとする本書の方は読んでいません。

小林聡美は『紙の月』でシビれさせられたので、こっちも気になります。 

私用で郷里滋賀へ向かうお供探しと偶然合致して、すぐさま触手が伸びました。

さっそく京大、民俗学琵琶湖博物館館長など、プロフィールにあるキーワードだけで、なんだか当たりを引いちゃったなあ。といったところ。ありがとう BOOKasahi。いつも世話ンなるねえ。 

 

中身はのっけから酒を飲むことの言い訳に始まって、締めも「泥酔から醒めての言い訳」。

ただこの言い訳ってのがなんとなくいいなあ、言い訳って言いながらフィールドワークと酒の緊密さにを説得力を持っていたりします。俳句が民俗学の歴史的資料となるというはなしもいい。1〜4章までは日本、5章エチオピア、6章中国海南島で、終止酒と俳句、国内は肴のはなし。

わたしは子供の頃を滋賀(の新興住宅地)で過ごしただけなので、酒と肴に興味がうつるはずもなく、食文化としても両親は京都人なので滋賀らしさのようなものも感じたことはありません、小学校の授業で菜の花漬けを漬けたくらいです。お酒を飲むようになってから滋賀の郷土食がどういうものなのか気になっていました。

著者も近江に越す段、はじめに芭蕉と鮒鮨が浮かんだそうで、名物から書かれています。

驚いたところで、

「ジョキ」—鮒鮨になるニゴロブナの刺身で近江八幡のお店で知ったそう。

日本酒はいいものが多いらしく、「松の司」「大治朗」「七本槍」「琵琶の長寿」という銘があがっています。この帰省にはあまり時間がなかったので、父親にいい酒屋さんに連れてもらって「松の司」の純米吟醸を飲むことだけはできました。

鮒鮨を漬ける時のご飯の行方も追っていて、頭と尻尾はそこについたご飯と大葉、わさびを混ぜてたたく。残ったご飯は小さなお団子にして、小麦粉をまぶしてきつねいろになるまで揚げる。どっちも美味しそうです。「鮒鮨に優るとも劣らない酒の肴」ですって、食べてみたい。

こういった知識がキチキチにつまっていまして、ほんとうに面白い。知りたかったことがさらなる発酵とともに鮒鮨状に詰め込んでありました。滋賀の地質と水と造り酒屋のマップまでありました。

海外の章も、エチオピアのコンソ・サウガメ村というビールが主食の村の話などは驚きにみちています。最後までキチキチに詰まっていて満腹でした。 

驚くべき智の泉。とても書ききれません。琵琶湖に浮かぶ沖島についても「湖内に島があって人が住んでいる島というのは、世界に三つしかない」ということまで知ってしまいました。

沖島で鮒鮨とふれあう旅がしてみたくなりました。

 

酒薫旅情 -琵琶湖が誘う酒と肴の俳諧民俗誌- (ほろよいブックス)
 

 

読まされ図書室

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